第2話

朝の陽の光が、通りを埋めつくす街路樹を淡く輝かせている。天気はいいけれど、少し空気の透明度が増した気がする。数日前から肌寒くもなった。もう秋も近いのかもしれない。
クラリスはその日も、ベイカー通りの街路樹の下でリプルを待っていた。
街はいつものように徐々に息づきはじめていた。通りに面したベーカリーはすでにシャッターを上げているし、店先でブレイクファーストを売り込むハニーズカフェも客呼び込みに余念がない。ベケットおばさんが犬の散歩をしながら通りを横切っていくのも見えた。
「おはよう、クラリスちゃん」
ベイカー通りを歩く人の顔はみな知っている。クラリスの脇を通るたびに声がかかるので、クラリスはそのたびに笑顔で会釈する。
リプルを待つ間、街の人々と会うのがクラリスは好きだった。朝の空気には、昨日までの全てをリセットする感覚がある。そしてもう一度新しい時を刻み始める。それでいて毎日変わらない風景がそこにあると、どこか気分がほっとするのだ。
「クラリス―！　ごめん！　ちょー、ごめん！」
そんなことを思っていると、通りの向こうから声がして、慌ただしく走ってくる小さな女の子の姿が見えた。
「ごめん、またこんな時間になっちゃった！」
クラリスの前までやってくると、リプルは本当に反省しているのか、舌をちろっと出してウィンクした。
「大丈夫。いつものことだもの」
「あ、それイヤミぃ～？」
「違うよ。わかってたから別に問題ないっていう意味」
身長一五〇センチ、金にピンクのグラデーションをほどこした髪はど派手なツインテール、自作で改造したへそだしルックの制服に、首から雷マークの黄色いエレキギターをさげている。手で引くキャリーカートにはギターと同じ黄色いアンプが載っていて、リプルはいつもと変わらないスタイルでの登校だった。
「また新しいのが浮かんだとかでしょ？」
「そうなの、まさにその通り！　今朝五時に起きたの。今日は絶対に待ち合わせに間に合わなきゃって心に誓って、昨日の晩にちゃんと目覚ましをかけたの。でも、ご飯を食べて着替えてるときに……」
「浮かんじゃった？」
「こんなの一カ月に一つ書けるか書けないかってレベル！　ちょっと聞いて！」
するとリプルは慌ただしく首からさげたギターを手に取ると、“臨戦態勢”に入った。あ、火を付けちゃったと思ったが遅かった。ギターのボリュームを素早く上げると、手に握っていたピックを“触れることなく宙に浮かせて”弦にあてがい、次の瞬間、アンプからひずんだ音を響かせた。
通りの人達が一斉にこちらを見る。けれどみなすぐに目をそらすと歩き始める。リプルが通りで突然ギターを弾き始めるのは、いつものことなのだ。
リプルはギターのことになると全てがそっちのけ、いつでもどこでもギターを弾き始めてしまう。そしてふいに曲が浮かぶのも日常茶飯事で、そのせいで待ち合わせに遅れてくるのは毎日のことなのだ。
「どう？　最高でしょ？」
出来上がったらしい一番だけ弾き終えると、宙に浮いたピックを手でキャッチしながらリプルが聞いてきた。
「うん。格好いいとは思う……」
よくわからないけれど、素直な感想を言う。いい悪いは別にしてロックが格好いいという一般的価値観だけは理解できる。正直言うと、一昨日思い付いたと言って聞かされたものとそう違いがわからないが、弦を上下にはじく早弾きで奏でられる音は、さすがギタリストだけあってちゃんとロックしているのだ。
「でしょー！　やっぱあたし天才。これでライブのレパートリーが一つ増えた！」
そう言うと、リプルはうれしそうにギターを抱き、まるで子猫を愛でるみたいにその表面にほおずりした。
「すごく良かったよリプル。でも、そろそろ時間が……」
そんなリプルにクラリスはやっと言うべき言葉を告げた。リプルがギターを奏でている間にときは刻一刻と過ぎ、時計を見るとすでに八時五〇分を回っていたのだ。
「あ、もうこんな時間、大変！」
すると自分のせいなのに、まるで人のせいで遅れたみたいな慌ただしさで、リプルはほおずりしていたギターを定位置に戻そうとした。しかし慌てたせいで肩からかけたストラップがねじれ、ギターがひっくり返っている。
「大丈夫？」
手を伸ばし、ギターを戻してやると、今度はアンプの載ったキャリーカートを自分の前に持ってきて、なにやら倒れないよう固定し始めた。クラリスは思わずそんなリプルを凝視してしまった。
「まさかリプル、使う気？……」
「仕方ないでしょ。じゃなきゃ間に合わない！」
そう言うと、キャリーカートにぴょんと飛び乗る。
クラリスはそんなリプルを見ながら立ちすくんだ。一番恐れたことになってしまったと思ったのだ。だが授業開始まであと一〇分。迷っている暇はなかった……。
クラリスは仕方なく意を決し、リプルのカートに飛び乗った。

クラリスたちは“セントルーズベリー学園”に向かって急いだ。グランツベリー村にほど近い場所にあるそこは、待ち合わせた街から全速力で走っても一五分はかかってしまう。しかし、今日のクラリスたちはそこを、たった五分で来ることができた。というのも、リプルが“魔法”を使ったからだ。
リプルのギターピックには“魔法力”が宿っている。そのピックを持ったリプルがキャリーカートに乗ると、そのまま宙に浮くことができ、走るよりも速く移動できるのだ。
「ギリギリセーフ！」
校門の前でカートから降りると、いかにもちゃんと“徒歩で来た”態で校内を走り、中庭に滑り込んだときには、授業開始のちょうど二分前だった。
中庭には、すでに担任教師アクシリアが数十人の生徒を芝生に座らせて待っていた。今日の一限目は演習なので、授業の場所が屋外だったのだ。
「あら、お二人とも随分とギリギリ登校ね」
「は、はい。でもちゃんと間に合いました！　二分前！」
アクシリアの言葉に“ちゃんと走って登校した”ことを示唆するようにリプルが息を切らせながら言った。
「なるほど。ま、確かに間に合ってるわね。お仕置きはなしか」
アクシリアは柔和な顔に笑顔を湛えながら言う。すると、
「本当に走ってきたんだろうな」
その柔和な空気を鋭く刺すように脇から声がした。見ると、生徒の点呼を取っていたロキがこちらを見ていた。
「も、もちろん！　ほら、こんなに息が上がって。あ、やばい、もう過呼吸すぎ、これ、保健室行きかも……」
さらに大げさな演技でリプルはロキを伺ったが、ロキは黙ったままじっとこちらを見つめてきた。
着ているスーツは純白、髪も肌も白いので頭のてっぺんから指先まで透き通るような白という出で立ちのロキは、幼なじみのクラスメイトだ。普段は仲良く親友的立ち位置だが、彼には学園を統率する生徒会長という側面がある。そのため、遅刻や校則違反にはすこぶる手厳しいのだ。
とそのとき、ふとクラリスの視界に白いものが踊った。ロキを見ていたせいの錯覚かと思ったが違かった。空から真っ白いものが降りてきてロキの肩に止まったのだ。
それは鷹だった。ロキがかわいがっている鳥で、その鷹は生徒たちの登校をときたま空から監視している。ということは、魔法を使ったところを見られていた可能性があり、すでにロキは鷹からその報告を受けているかもしれなかったのだ。
実は最近になってよく言われることに、“学校外では魔法をあまり使わないように”というものがあった。クラリスがリプルの魔法で登校するのをためらったのもそれが理由で、つまり、それを破った今日は、厳しく怒られてしまう可能性があったのだ。
しかしロキはそこで、
「まあ、とにかく今後は“走らなくてもいいように”早めに家を出てくれたまえ」
と言うと、それ以上は問い詰めず、
「これで全員揃いました。先生、授業のほうを」とアクシリアに頭を下げて促した。
「ありがとう、ロキ。では、今日の一限目を始めます」
アクシリアも相づちを打つと、授業モードにそのまま移る。
あれ？と思った。確実に魔法を使ったことがバレたなら注意されるはずなのだが、ロキはすまし顔で生徒の列に戻ると、授業に聞き入る体制を取った。もしかしてロキの鷹に見つかっていなかった？　クラリスはとりあえず助かったことにほっと溜息をついた。
「みんなマジックアイテムは持ってきてますね」
「は～い」
アクシリアのかけ声に、生徒たちが一斉に“マナの木”の根で作られた細い棒状のステッキを手に取った。クラリスもバックからそれを取り出しながら横を見ると、リプルがギターピックを弾くように指先で挟むところだった。リプルの場合は、ピックこそがマジックアイテムになっているのだ。
マジックアイテム―――それは魔法力を操る道具。そしてここ、“セントルーズベリー学園”は“マジシャン”と呼ばれる魔法使いたちを教育する学園だった。
魔法使いと言うと、一様に魔女のようなイメージを持たれるが、そんなことはない。彼女たちは外見も中身も人間と同じ、ただ人とは違う“特殊な能力”があるだけだ。
セントルーズベリー学園に通う生徒はみな、大昔からいたとされるマジシャンたちの末裔。生まれたときから“魔法力”を持ち、その力を絶やさぬようこの学園で訓練を受けている。彼らの多くが住むグランツベリー村は、欧州のなかでもマジシャンが遥か昔から住んでいる地域として、長い歴史のなかに人知れず存在してきたのだ。
「では、もう三学期ですので、今回は“シナジー効果”について勉強したいと思います」
アクシリアが中庭に置かれた黒板に向かって指先をちょいと動かした。手が触れていないのにチョークが浮き上がり、黒板に勝手に文字を書いていく。
マジシャンの魔法には、それぞれ属性がある。
火、水、風、雷など―――。それは自然のなかに内在する自然力を借りて、それを具現化して力に変えるもので、マジシャンたちはそれをマジックアイテムで引き出すことができる。そうすることで実際に目に見える形で発現できるのだ。そしてシナジー効果とは、その発現した力の融合を意味していた。
「今までの授業でシナジー効果の理論についてはもう教えました。そこで今日は実践に移ろうと思います」
「実践？」
そのとき、アクシリアが発した言葉にクラリスは思わず聞き返してしまった。アクシリアは、柔和な顔を傾け、にこりと笑う。
「そう。頭で考えてても実際に出せなければ意味がないでしょ」
その返答に、脇にいたリプルが「わぁ、すごい、実践なんて興奮してきた！」と飛び跳ねたが、クラリスはそこに少し引っかかりを覚えた。
確か“シナジー効果”は、炎と風、雷と水などを融合させ、その威力を増幅させる効果を生み出すものだ。しかしその力はとてつもないゆえ、授業で実践はなかったはずだが……。
「シナジー効果の実践はカリキュラムにないんじゃ？」
「なにを言ってるの。ちゃんとあるわよ。それが今日なんだから。では、さっそくやってみましょう。クラリス、ロキ、こっちに来て」
すると早速アクシリアに呼ばれ、クラリスはロキとともに立ち上がって黒板のわきまで行くことになった。
「まずはクラリスが炎を出して、そこにロキが風を追加させるの」
アクシリアはクラリスとロキの肩を押すと、生徒が座っている位置とは反対方向に向かせて立たせた。
今まで普通に魔法力を出したことはある。けれど、シナジー効果を試すのは初めてだ。クラリスは緊張した面持ちで、ステッキを一振りした。その先からぽっと小さな炎が飛び出す。
「ダメ、そんなんじゃ。もっとよ」
手招きの仕草でさらなる炎を促され、クラリスは指先に力を込めてそれを大きくした。すると出した本人のクラリスでさえちょっと身を引いてしまうほど巨大な炎が目の前に立ち昇った。
「うん、いいわね。じゃあロキ、こっちから“風”を出してみて」
「はい」
クラリスの隣にロキが立つ。
ロキも初めてで緊張しているのだろう。白い頬が少し紅潮しているのがわかった。けれどそんな緊張を振り払うかのように、ロキは容赦なくステッキを大ぶりに振った。
次の瞬間、“風”がクラリスの炎目がけてぶつかってきた。刹那、炎が風の勢いで天高く立ち昇るや、まるで龍が口から火を噴くみたいに中庭の端のほうまで吹き上がった。
「あっちーーーっ！」
生徒たちが一斉に飛び上がった。炎は生徒たちとは逆のほう、中庭の人のいない場所へ向かったはずなのに、その熱がすさまじく、周囲に熱波が押し寄せたのだ。実際クラリスもその熱さに後ろへ倒れそうになったほどだった。
「こ、これがシナジー……」
「そう。他の人と協力することで威力を強化できる、そういう力なの」
「私もやりたい！」
するとリプルが呼ばてもいないのに立ち上がり、黒板の脇へ走ってきた。
「じゃあ、リプルには私が追加してあげる」
リプルは生徒たちを背に立つと、ギターピックを指に挟んだ。
「極まれよ、我が力！」
アクシリアが叫びながら“力”を放つ。それは辺りの地面を一瞬にして覆い尽くす“水”だ。そこにリプルが“雷”を轟かせると、激しい稲光とともに、前方の地面全体が青く瞬いた。
「水に稲妻、これは威力を増幅させるだけでなく、持続力もあるの。これは池や川、金属のものでも同じことが起きるわ。科学反応と同じなのよ。こうしてその場に張られた稲妻の電撃はしばらく残っているから、この上を歩いたものは感電しちゃう」
「か、感電……かっこいい！」
リプルは自分の出した力に興奮したのか、子供のように飛び上がって喜んだ。
しかしクラリスはそんな“力”を横目に、自分のステッキをじっと見つめた。
今さっきのシナジー効果で生まれた“力”には本当に驚いた。あれほどの力が二人一組になると出せるなんて信じられない。けれど、その驚きは同時に、ある不安に直結していた。それはシナジー効果に対する根源的な疑問だ。
これだけの“力”を、一体なにに使うというのだろうか―――。
マジシャンの魔法は人のために使うものだと教えられてきた。火が起こせないような状況で炎を出してあげたり、水が必要なときに水を出すなど自分たちの魔法は人々の役に立つためにあるはずだった。それなのにそれ以上の力を実践で教えられる？　しかもアクシリアは、先ほど『感電』と言った。『感電』というのは、『人のため』ではなく、『人に使う』意味に他ならないのだが……。
「というわけで、あとはこれをどう使いこなすか。今は出すことだけに専念することに必死だけど、自在に操れるようにならなければならないわ。とにかく練習あるのみね」
アクシリアの言葉で、生徒たちがそれぞれ二人一組になってシナジー効果を試し始めた。辺りに炎が上がり、水が散り、雷が鳴り響く。まさに中庭は魔法のオンパレードになった。
しかし、クラリスはアクシリアの横顔をじっと見ていた。アクシリアは、シナジー効果を試す生徒たちの練習に笑顔でアドバイスを送っている。その表情はいつもと変わらない。けれどクラリスはその笑顔の裏に、なにか大きな揺らめきに似た“予感”があることを感じ取っていた。

放課後、クラリスとリプルはマナの木のたもとでライブの準備をしていた。
学園内部は出入り口から突き当りのパイプオルガンまでまっすぐ廊下が延びている。
そこには、魔術書や道具が詰まった本棚が並んでいて、その廊下の中心部に生えたマナの木は、丸天井のステンドグラスから差し込む光で輝いている。木の左右には水場と噴水が横に伸び、それが金のゴブリンが咥える杯の炎で幻想的に照らされている。廊下と噴水によって四分割された空間のそれぞれには階段教室が配置されていて、放課後になると、教室を出た生徒達が木や噴水の周りに集まり始めるのだ。
今日ここでリプルのライブが行われる。とはいえ、それは結構定期的に行われるので生徒たちにとってはもはや特別なイベントではないが、親友のクラリスは毎回必ず付き合うことになっていた。
「ねえ、アンプの位置どっちがいいと思う。この間こっちに向けたらドームの反響が結構大きくてさ。今日は教室の階段側のほうへ向けようかと思ってるんだけど」
リプルが聞いてくるので、クラリスは階段のほうを見ながら、
「そうだね。あっちは広々してるから反響が少ないかも」
と答えた。するとリプルがクラリスの顔を覗き込んできた。
「どうしたの？」
「何が……？」
「いや、なんか授業終わってからちょっと様子が変だなって。なんかこう、心ここにあらずって感じ」
平静を装っていたものの、いつも一緒にいるリプルには様子のおかしさを見抜かれてしまったようだ。
「まさかあたしのライブに付き合うのがちょっと面倒臭くなったとか？　それだったらショックすぎなんだけど！」
「ち、違うよ」
リプルが突然泣き出しそうな顔で眉をしかめたので、それについては慌てて否定し、少し悩んだ末、ずっと授業から気になっていたことを口に出してみることにした。
「あのさ。シナジー効果って今日授業でやったでしょ？」
「ああ、すごかったよねぇ！　あたし、ちょっと怖くなっちゃったよ」
「怖くなった？」
「もしだよ、もし洗面器で顔洗ってるとき雷なんか出したら、あたし感電しちゃうってことじゃん！　もう絶対寝ぼけて顔洗わないようにしようって心に誓ったもん」
リプルは授業のシナジー効果の威力を思い出したのか、興奮しながらも少し身震いしていた。怖くなったと言うので期待したが、クラリスの意図は全く理解していないようだった。そこでクラリスは一呼吸置き、言葉を続けた。
「実は考えてたことってそのことなんだけど、あれって、なんのために使うのかな？」
「それは、魔法をうまく使いこなすためでしょう。あれだけの力を二人で出せるようになるなんて信じられない……友達って、やっぱ大事だよね」
リプルはまだ理解していないようで、真顔でそう言った。らちがあかなそうなので、クラリスは一気に思っていたことをぶつけることにした。
「でも、わたしたちの魔法って、人のために使うものだって教わってきたでしょう？　なのに先生はリプルの雷が水に広がったとき、感電って言ったのよ。さっきの洗面器の話じゃないけど、感電ってことは“人のため”じゃなく、“人に使う”って意味でしょ？　その真意ってつまり……」
そこでリプルの顔がにわかに緊張して硬直するのがわかった。
「まさかクラリス……それって、あたしたちのことを“よく思っていない連中”のこと言ってる？」
ようやく意図が伝わったようだ。
「いや、わからないよ。まだわからないけど、あれほどの力を先生が教えるってことは、そういう可能性もあるのかなって……」
するとリプルが神妙に黙り込んで虚空を見つめた。リプルの頭によぎっていることはわかっていた。それは、クラリスも今まさに考えていたことで、半年前に起きたある事件のことだったからだ。
半年前、マジシャンたちを取り巻く環境である事件が起きた。それはとある村に住んでいた一人のマジシャンが突如行方不明になるというもの。
マジシャンは人知れず暮らしているとはいえ、グランツベリーだけではなく、世界各国で居を構えている。その行方不明になったマジシャンはイタリアのある村の青年で、その失踪の原因が事故なのか、はたまた自分の意志で旅へ出たのかは定かではないが、そんななかで一つの噂も広まっていた。それは、ある組織に連れ去られたというもの。その組織の名は、E.I.X.（エイクス）―――。
E.I.X.は、テロを目論む犯罪者を先んじて捕える国際組織だ。現在、世界中を股にかけて活躍しており、E.I.X.とマジシャンの軋轢は、十年ほど前から起きていて、マジシャンはなぜかE.I.X.から目の仇にされていた。
そしてE.I.X.との関係も鑑みた学園側は、青年の消息捜査に乗り出したが、E.I.X.との接触は難しく動きも見えないため、大大的な捜査はできず、結局、消えた青年の行方は今でも謎のままだったのだ。
E.I.X.が連れ去ったのか、それとも別の理由なのか。それは誰にもわからない。だが、その事件以来、マジシャンたちの間で妙な緊張感が生まれ始めたのも事実だった。
一人では街へ出歩かない空気が広まったり、皆、村の外へはあまり出なくなったり、そしてなにより人前で魔法をあまり使わないよう最近言われるようになったのも、その背景があったのだ。
「けど、学園から特に注意とかはないよ。E.I.X.の噂もここのところ聞かないし」
リプルが不審そうに眉をしかめながら、クラリスを伺うように見つめてくる。
「だよね。やっぱ私の思い違いなのかな……」
学園から警告なり勧告がないなら、そうなのかもしれない。
そのとき、ふいに二階から中央フロアに伸びる階段に人影が現われるのが見えた。
バックを持って降りてきたロキだ。いつもならクラリスと共にリプルのライブを見るのだが、今日は授業が終わると用事があると職員室へ向かった。その帰りなのだろう。
「ロキ！」
クラリスは立ち上がり声をかけた。すると考えごとでもしていたのか、ロキは今初めてクラリスたちに気づいたみたいにはっと顔を上げた。
「ああ、クラリス。あ、そっか、今日もライブか」
「今日もライブかって、そうだよ！　いつものことじゃん」
「ああ、そうだったな」
するとロキは自分に言い聞かせるようにうなづいてみせる。そして、
「いや、聞きたいのは山々なんだが、今日はなんだか朝から体調が優れなくてな。悪いけど、今日は帰らせてもらってもいいか」
と聞いてきた。そしてクラリスが答える間もなく、さっさと階段を降りようとする。
「ロキ、大丈夫？」
クラリスは慌てて声をかけたが、ロキは「大丈夫大丈夫、今日一日休めば問題ないから」と笑顔でうなづき、そのまま玄関のほうへと歩を進めた。
しかしクラリスとリプルは目を合わせた。ロキが病気になるなんてことは今までなかったことだ。ロキは生徒会長という責任感から自分の生活の節制もちゃんとしている。そんなロキが体調を壊す？　それはある意味、前代未聞の事件だった。
なんだか今日は朝からおかしなこと続きだ。クラリスは今日一日の出来事を反芻しながら、ロキが玄関を出て行くのを見送った。
「なあ、まだか？」
そのとき声がして振り向くと、生徒が三人立っていた。
「久々にリプルのライブ聞こうと思ってさ」
「始めるんだろ？」
「あ、いらっしゃい！　もちろんやるよ、新曲できたから、そのお披露目もあるし！」
リプルは客が来たことに興奮したのか、ふたたびライブの準備に取りかかった。クラリスは、もう一度ロキが出ていった玄関を見たが、頭を振って気を取り直すと、リプルのライブ準備の手伝いに移った。